脳内論理構成

最近は懐疑主義相対主義が大きいかもしれない。


懐疑主義は所謂方法的懐疑であり、疑う余地があるものを全て疑うことであります。
真理の探究を図るなんていう大仰な役割名をつけることも出来るけど、
簡単すると、弁論に限らないけど論理構築の際に論理の矛盾を探す手法としてかなり有効なものであったりする。


相対主義は簡単に言えば「第三者の視点に立って考える」ってことなのかな。
自分が考えていることは本当に正しいかどうかは自分では分かりようがなくて、他の人から見たら明らかに誤っているかもしれない。
自分が考えている何物も絶対に正しくは無いんじゃないかというのがまず前提にあって、その疑念を抱いている人なら受け入れやすいかもしれない。
でも全てが不確かだからといってそれが自己の存在を揺るがすかと言うとそうでもないわけで、何故かと言うとそこにはデカルトのコギトエルゴスム的なものがあって。*1


何でこんなことをわざわざ考えるかと言うと、例えば些細なことで論争になったときとか確執が生まれそうなときに相手の気持ちになって考えてみることで「俺もむかつくけど、相手もむかつくのもしょうがないか」と思えるから、そうすればなんとか懐柔策を取りにいける。どうやったら相手が収まるか見当をつけやすくなる。無用な反発を防げる。
相手の考えをしてみるのは不要な怒りを起こさない手段でもあるし、かつ相手の気持ちを察することも出来るかもしれない。
それでも相対主義者は相対主義者であるがゆえにこれが「絶対」とは確証できず、絶対主義者のように全てを「絶対」でひとくくりに出来ない、ある意味ジレンマ的な要素も含んでるのかもしれない。
でもこういうのが面白い。


こう考えてる人ってやっぱ少ないよね。少数派かつ特質ってことはやっぱ変人に配列されるのかなと思ってみた。

*1:つまり我思うゆえに我あり