じんせいってなんですか。

うん。昨日の夜から今晩にかけて考えてたことね。
やっぱ脳は鍛えると色々考えられるようになるわ。先輩によると脳は疲れないらしいし。
そうか筋肉無いから乳酸たまらないし、エネルギーさえ補給されればアセチルコリンとかセロトニンとかは合成されるから大丈夫なのかなと思ってた今日この頃。
頭が疲れるのは思考の残滓を処理し切れてないからなんだなと思ってみた。そこらへんは後日また書いてみよう。以下長文読むな。読んで鬱になって後悔しても俺は責任取りません。特に一見さんは見ないほうがいい。常連さんは俺がこれまで書いてきた文章の内容を思い出して、続きを読むか決めて。


兎に角。
まあ生きる意味なんて漠然と考えてて、俺が生きる意味自体に意味としての存在価値を捜し求めていて。
何故こういう考えにまず入ったかと言うと、人間は総てメカニズムに拠って挙動しているという仮定を否定できなかったから。
俺が今ここに存在するという状態はあくまでエントロピーが極度に増大しただけの存在であって、つまり一度死んでエントロピーが拡散してしまうと俺という存在はもう元に戻らない。
どこまでが俺の「生きている」境界線で、そこから先が「死んでいる」かが分からない。


そして、この近代社会においては、感情でさえも薬物によってコントロールできる。
逆に言えば、人間のあらゆる機能は物質からなる、つまりメカニズムをなしている。
総て自然界の法則に従った一連の化学反応による表出であり、それを感情と認識するメカニズムすら物質からなる。
そうすれば、俺が感じるような喜怒哀楽は総てそんな超越的なものではなく、複雑ではあれどはっきりとしたものなのではないのか。


さすれば、俺がここに生きる意味は?


自己決定。自由。意思。定型。束縛。決定運命。


俺が何かをして幸せだと感じるとしよう。
それが本能である。
俺は本能により「幸せだ」と感じているだけに過ぎない。
本能のみで俺は存在している。本能が自己保存のために複雑化して思考を作った。
思考は更に組み合わさり、俺という自我を形成した。


本能はメカニズムだ。
つまり俺は完全なメカニズムによって動いているのに過ぎないのではないか。
それは悲しいことなのか。
今こうやってキーを叩いていることでさえもコンピューターのプログラムのようにある化学反応の組み合わせによるプログレスの一部ではなかろうか。
俺の生きる意味は。
俺はこうやってメカニズムにしたがって行動している。完全に。
これからの自己決定でさえも、これまでの環境によって自動的に決定されるとしたら。


逆だ。逆を考える。


俺が生きる意味がある必要は?


あろうとなかろうといまは関係のないこと。


俺は、「自分には生きる意味が必要」と吹き込まれているのではないか。


総ては固定観念
総ては妄想。
総ては主観。
総ては俺。


そうだ。


つまりは、俺が今こうやって存在していて、メカニズムによって動いているにも拘らず「意識」というものが存在していることが問題なのだ。


意識。


唯一説明のつかないもの。幽霊などは脳内物質のバランスの乱れによる幻覚と説明できるが、それを構成している意識とは何なのか。意識即ち俺。
この意識と言う存在によって、俺の前提は総て崩れる。
古の人も言ったろうに。吾思うゆえに吾ありと。
意識の存在が、俺の存在理由であり、そこから沸き起こる欲求が、俺の行動原点だ。
気付いたことはそれだけで、それから前進も後退もしてないのだが、
俺は死のうと思わないということは確認した。