声無き思考・弐

再来です。
前回ので不完全燃焼気味だったので、もっかい整理する努力。
[事後報告]長文になりますた(約3330字)。目次つけました。

前提

「ある存在Aが認識されるためには、必ず他の観測者Bが必要である」
ということ。
そして、思考の定義。

思考
物事を判断する論理回路。判断基準によって様々な形態をとる。

これを立てておいて論を進める。

「無意識」について

「とっさに体が動く」「無意識に手が出る」等の現象は、言い換えると、
「自分の意識が思考内容を認識・制御できない状態で思考が展開され、それが運動中枢に働いた」となる。
では、認識・制御できない状態とは何か。俺が考えるのは二つ。

  1. 激情等の、多大な牽引力によって思考が展開される時。つまり、感情野が激しく興奮した時。
  2. 自分が認識していない思考によって判断・実行がなされた時。

一番目は最初に論じるには適さないのでとりあえず置いとく。*1注目すべきは二つ目。
この存在を否定する人もいるかもしれないが、(それは思考ではない!と)その議論は後々。


次に、俺はこの「認識していない思考」を所謂「本能」と、「認識している思考」を所謂「理性」と関連付けることにした。
ここで定義する「本能」「理性」とは、

本能
自己の欲求(自己の生存、種の保存、自己実現等)を充足するためにはたらいている、現在の状況のみを判断基準とする思考形態
理性
自己の欲求を充足するためにはたらくが、より広範な範囲(時系列的にも、視点的にも)において判断する思考形態

最初は抽象的になることを許して欲しい。

本能・理性の位置づけ

まず最初に、本能の位置づけだが、「無意識に」「思わず」に代表されるように、本能は認識されえない。つまり、他の思考=理性の影響を受けずに思考する。
では何故「本能」という概念があるかといえば、それは「無意識に」という、「本能が引き起こした現象」によって、「ああ、ここには認識されていないけど何か思考が存在する、これを本能と名づけよう」としたまでである。
約すると、本能自体を認識したのではなく、本能が引き起こした「行動」を認識したに過ぎない。


対して、理性の位置づけは、「相互認識」である。
「理性」というのは、必ずしも一つではない。「理性」という思考集団、といっても良いかもしれない。ただ、塊となって一つの思考体を形成している。
これらの個々の違いは、「判断基準」だ。明日を判断基準にするもの、明後日を判断基準にするもの、一年後を判断基準にするもの、自分を判断基準にするもの、他の人を判断基準にするもの。
「理性」達はお互いに認識しあい、そしてお互いの思考内容に干渉することが出来る。
だから、「考えを無理やりやめる」とか、「考え方を変える」とか、「思い込む」とか、他にも葛藤が生まれたりなど、多種多様に複雑な考えを生み出す。

本能と理性の相互補完(役割分担)について

ここで、本能は、判断基準を現在に特化することで、*2判断までの思考時間を短縮している。
それにより、緊急時におけるとっさの判断ができ、より高速に判断・行動ができるようになっている。
しかし、そこには一つ問題点がある。
「現在の損得」だけを判断基準にしているため、後々どういう結果になるか、までは予測していない。
勿論、現実の人間社会においては、現在のことだけで判断すると後々不利益をこうむる状況のほうが格段に多いわけだ。


次に、理性は、判断基準を時間的・視点的に範囲を広げるため、先ほどの「本能の問題点」を解消することが出来る。
つまり、現在のみならず将来において、今の行動がどう影響を及ぼすかを予測でき、それに基づいて行動の判断を下す。
ただし、理性にも問題点はある。
判断基準が爆発的に増加しているため、その思考速度は本能に比べると格段に低い。
その為、身の危険に晒される状態に陥った時、瞬時の判断をするには適さないのだ。
ここで注意して欲しいのは、理性は「広範囲な判断基準に特化した思考」ということだ。つまり、理性は「現在のみを判断基準とする」のを苦手とする。否が応でも現在以外を判断基準に入れてしまうため、その思考速度は確実に低下するのだ。
そして、これをカバーするのが本能である。
本能はその持ち前の思考速度でもって、危険時はとっさに回避の判断を下し、運動中枢に命令、そして行動に反映される。


こうやって、本能と理性は相互補完の関係にあるといえるだろう。

具体的事項

理性が本能の欠点を補完する場合。
「思わず暴言を吐きかけたが、それは後から顰蹙を買うことになるため、押しとどめた」
ここで、「本能」は、「自分の言いたいことを言いたい」という現在の欲求に従って、それが暴言であるかないか、そして後々のことは考えずに、運動中枢に対して、言語を発するようはたらきかける。
対して、「理性」は、「自分の尊厳を保ちたい」という欲求を持つため、「今、本能の欲求に従うと、尊厳が著しく損なわれる」という状況判断と、「自分の言いたいことを言うことと、尊厳を保つこと、どちらのほうが大事か」という価値判断が行われる。
最終的に、「尊厳を保ちたい」と結論を出し、運動中枢に対して、言語の発生を停止するよう働きかける。
こうして、より自分が重点を置く欲求を満たすことが出来る仕組みになっている。

本能・理性の優先度

先ほども述べたとおり、理性は本能に干渉できない。また、本能は現在のみを判断基準にしているため、できるできないに関わらず、理性に干渉することはない。
では、その衝突点はどこか。即ち運動中枢である。
本能も理性も、運動中枢に働きかける。
それが衝突した時、理性は「どうしたら自分の欲求が通るか」を判断基準として判断し、「影響力を強化する」という結論から、影響力を高める。*3
それによって運動中枢は理性の大きい影響を受け、そのとおりに行動する。これは上記の具体例に相当する。


それに対して、「とっさに体が動く」というのはどういう状態か。
これは、本能の思考速度が高いことに起因する。
本能が、理性の及ばぬ速度で思考を展開、判断し、運動中枢に命令を送ることにより、理性が手を出せないまま運動が実行に移される。それだけ本能の思考速度が高いという表れだ。


理解して欲しいこと

ここらへんで、理解して欲しいことは、
本能は思い通りにならない、理性は思い通りになるもの、というようなものではない、ということだ。
「思い通りにならない」というのは、自分の欲求を満たされない状態のことを指し、理性だって思い通りにならないときもある。
「考えたくないことをどうしても考えてしまう」というのは即ちそれに該当する。
一つの「理性A」が、ある欲求に従って考えていることを、もう一つの「理性B」は、他の欲求に従って不快だと感じる。そして、Aに対してそれを抑制するよう働きかけているが、Aの欲求のほうが強いため停止することが出来ない。
どのような場面においても、何かしら「欲求」に従って理性は行動している。絶対したくないことを何故かしている、と言う場面は、外部からの強制力がない限り存在しない。

声無き思考

そして、前回出た「声無き思考」とは何か。
現在の結論は、「本能」。
では、何故「声無き」思考なのか。
理性は、相互に干渉するため、その連絡手段として、言語を使用している。
言語の使用によって、より体系的な連絡が取れたといってもいいだろう。
しかし、本能は認識されず、干渉されず、干渉しないため、理性との連絡手段がない。
だから、声がない。連絡しないから。
だから、「声無き思考」。

人間と動物の違い

人間は、この「『理性』の集団」を、言語という連絡手段によって体系化し、効率化し、複雑に干渉しあう構造を形作ることに成功した。
それにより、複雑な思考にも耐えうるようになったのだ。
サルなどの、比較的ヒトに近いとされている動物も、この思考形成の中途にあるのではないかと考える。
そして、前回と異なり、定義を変える。

人間
より多くの判断基準を基礎とする「理性」の集団を、「言語」によって論理的な連絡を相互に可能にし、それによって「本能」を上回る多視点的思考能力を獲得した、動物。

結論をとりあえずながらも出したところで、今回は終わろうと思う。

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前回の記事

参考程度に。
今回の記事を書くきっかけになったものですが、いわゆる叩き台的存在です。
現在となっては、俺の「過去の」意見です。
というか、今回の記事だけで十分かも。
背景が分かれば、もしかしたら理解が深まるかも?見たい人だけ。
声無き思考

Special Thanks

前回の記事にコメントを残してくださった方々

*1:あえて説明するなら、後述する「理性集団」のうちの一つが多大な影響力を持つ(比較評価において大きく優勢になる)ことによって生じる。

*2:もしかするとこれは「原始的」なだけかもしれないが

*3:ここらへん少し論が怪しい。