四十万

よんじゅうまんと書いてしじまと読む。
別に地名が出したかったわけではない。
本当は「静寂」と書いたほうのしじまを出したかったのだが、生憎IMEに登録されていなかった。広辞苑には載ってる(はず)のに。
以下読むな、っと。かなり暗いよーぅ


夜の、この時間は、スピーカーの電源さえ切ればほとんどの音はなくなる。
一人で何かしら考えるのにはまた最適な環境の一つでもある。
今は、その静寂に、うざったいカバーを思いつきで撤去したことで発生するようになったキーボードの打鍵音のみが響く。


別に今の勉強に直接的実用的な意味を見出す必要は無い。ただ、大学に行くための手段に過ぎない。
その手段を実行できさえすれば、そしてそれを自分の実力でもって最大限に発揮し、他人より能力があることを大学側に提示しさえ出来ればいい。
単に、その手段がかなり面倒くさいだけだ。
分かってる。
自分で出した結論。それは常に疑うべき結論。そして信じる結論。均衡が存在を承認する結論。
疑う時と、信じる時は、分けておくことで、最大に効果が発揮できるはずだ。
そのことを再確認することもまた懐疑信頼の一環でもある。それが俺の思考回路。それだけでしかない。単純。


頭脳の優劣とは何だ。
単一の尺度で測るものなのか。
いや、その疑問は無意味だ。何故なら現代の大学入試においては既に尺度がほぼ確定しているから。
疑問を深めることで解決されることがほぼ無いことは考えてもしょうがない。
単に、運が良かったというに越したことは無いだろう。
生得的なものなのか。
分からない。これまでの努力も生得的な性格が成し得た物だとすれば、それは是と言わざるを得ないし、現実にそういう、特別な教育を受けずに頭脳的に長けた者がいることは事実だ。つまり是なのか。
自分の暗いところを隠し、その暗部分によって生み出されたものを外部に提示すること。
今自分が何を言っているのか理解されずとも書きたいときもある。
発想力。新しいものを生み出す力。
でも人間は無から有は生み出せない。頭の中にある「有」から何かを形成するだけ。偶然から何かを拾い出すだけ。
だから、有を追及すれば更なる有は得られる。無を探しても得られるのはそこには何も無いという認識。それも、「探す」という行動、つまり有から得られるもの。


平等とは何だ。
それを求める声は、敗者の遠吠えであり、それを聞き入れるのは、勝者の驕りから来る救いの手なのか。
弱肉強食の原理にこれほどまでに逆らうのか。
人間の理性とは。あくまで本能という逆らいがたく自我の独立を妨げるファクターを排除する欲求を有しているのか。教えられた良心なのに。
平等でなければ、不満が募った集団により暴力が発生する。それを単に防ぐためなのだろうか。それを美化するための良心なのか。


人間は未来に遺伝子を残して何をしようというのか。


俺は、自我が何で形成されていようと、それが全て、機械的な反応でしかないとしても、これから何をするかは決まりきったものであろうと、そんなことはどうでもいい。
ただ、自分がしたいと思うことをしてみる。それだけ。
出ない結論を出ないと決定付けたこの「結論」を俺は疑うが、それを信じながら生活しているのもまた事実である。