もうだめぽ

自己完結型自己分析の故見ることはお勧めできません。


クラスメイトに加え、部活のメンバーも仲間として認識できなくなってた。
他人の間は、俺は和を保つ努力ができる。俺の脳内で逆巻く、相手を傷付ける可能性のある言動をかなり封ずることができる。*1


だから、相手がどう振る舞おうと俺の認識の範疇外になり、きつい言葉のみで構成される*2指摘・批判は、その潜在的な高い攻撃性から理性によって出力を拒否され、口から出る事なく、それに対する意見や反論を得る事なく、少々発達した忘却能力によって消滅する。
無論、この忘却能力は溜まったこれらの言論*3による自分への悪影響を可及的軽減する為に発達したものである。
まあこの忘却機構を通しても消去しきれずにカスが若干溜まり、*4精神が不安定になる時もないではないが、現在社会問題になっているものとは比較にならない程影響は小さいと思われる。
とにかく、この忘却能力のお陰で、思考の転換がしやすいが忘却しやすい、複数論理の同時展開*5と同様エネルギーを大量に消費するので疲労時は起動しにくい、睡眠の深化、肥満抑止など他にも利益不利益があるが、それは置いといて話を戻そう。


「仲間」について。
これは特徴的に「他人」の対極に位置するだろう。
俺の意見を拒絶することなく、ある程度吟味して、かつ、意見は率直に返す。そして、真剣に相対する。
俺の対応の変化としては、協力的になる、その代わり(と言えるかは疑問符を付けざるを得ないが)言いたい事を言うようになる、等等。


これまで、学校関係の人達は、「他人、かつ仲間候補」であった。現在は前述の通りである。
しかし、よく考えてみると、昔から「仲間」に該当するのは、現在「俺」以外認識していない。
あたりまえだ。一般から見れば条件が特異すぎる。


だからこそ一人で自問自答することも増え、一人で物考えたりするようになってきたんだろう。
俺と同じような人は見つからないし、逆にそんな人がいたら気持ち悪くて拒絶するんじゃないかもしれないと思う。
だから、俺の好む人格は「俺にないものを持つ人」であり、かつ俺に共通するものをもっている人、ということになる。


うー。世間の実情に合うような脳内論理の構築も考えたほうがいいな。どうせ既存のと衝突するだろうけど。こらえてこらえて。

*1:たまにそれが洩れてしまって険悪な状況にしてしまうが。

*2:俺の言語能力が不足なことに起因するだろう

*3:感情も添加されることによってそのエネルギーは増加する

*4:いわゆる「ストレス」

*5:後日機会があれば書きます。